世襲

多岐にわたるテーマであって、語の定義すらままならない。ここでは、主として血族により地位や職が代々受け継がれていくほどの意味で使うことにする。
「家」や「族」の存続がそのまま家業の継続に繋がる時代では、世襲はことの他重大事であった。日本においても、天皇位をはじめ将軍位の継承から庶民の遺産相続にいたるまで、家または一族が安定と発展を願い常にスムーズな世襲を目指してきたと言っても過言ではあるまい。
敗戦を経験した現代においても天皇位は世襲されており、この原則が生きている。歌舞伎や能狂言などの舞台芸、茶華道などの芸事から、様々な老舗にいたるまで現在でも多く実際に血族による継承が行われていると言ってよかろう。
代々安定した地位にあれば、徳が積まれ、芸事や職能が磨かれていくこともできる。まあ、これが世襲の良さといってよい。だが他方で、いかに磨かれようと、継承したもの自身が古臭くなってしまうことは避けられない。金は腐らないとしても、遺産として継承すると、人はどうしても脇が甘くなってしまう。可能な限り、自分の力で生きていくのが原則だ。
多くの人が懸命に働いて金を貯め、家を建てようとするのも、自分のためだけでなく子供に遺産として残してやりたいからだろう。確かにこれが親の情かもしれない。これはこれで健全である。
幸か不幸か、甲斐性のない私は金もないし家を建てることもできなかった。言い訳がないわけでもないが、これらに拘らないことを根本の価値観にして生きてきたし、余生もそうなるしかないようだ。
戦後の混乱で下克上が風潮であったであったにしても、六十数年経ってみるとやはり様々な分野で世襲が目立つ。現在では政治の分野でも最先端の企業などでも、昔へ回帰して、世襲が目に付く。残念ながら、個人の人格と能力だけで評価される社会が更に遠くなっているのかもしれない。
他方で恵まれない者が多いのも現実である。こんなぬるま湯の時代が長続きするとも思えない。年寄りのみならず若者も、しっかり個人の能力を磨き、来るべき社会に備えたいものだ。