『説文』入門(37) -「台」と「臺」(中)-

厚顔無恥にも今になってテーマを説明すると、列島の古代通史に欠かせない「邪馬臺國」が『魏書』東夷傳倭人条では「邪馬壹國」とされており、また一般に「邪馬台國」と表記されるなど、私には混乱しているように見える。そこで、当時の辞書からそれぞれの意味合いを考えてみようというわけだ。これらを統一する機運となれば幸甚である。
歴史というものは、自分の姿のみならず脳の中まで深く染み込んでおり、常に整理しておかないと自分が等身大に見えない意味がある。だが古代史となると、現在との繋がりがはっきりとせず、読者をオタクの世界に引きずり込んでいるだけかもしれない。私がさも大事そうに細かなことを並べるのは我田引水のきらいがあるし、ここのところ少し急ぎすぎている傾向もある。
また、翻って、こういう内容のものをコラムに書くというのは適切ではないという意見もあるだろう。私の筆力ではこのスペースで書ききれない気もするし、またいつものように、ここで取り上げるべきか否か迷いが生じている。
ただ、テーマ自体は一般に目にするものを選ぼうとはしており、工夫した書き方であれば読んでもらえるかもしれない。私なりに基本情報をこなせば、皆さんが歴史を考える足しにしていただける気もする。
さて、『説文』で「臺」は「臺 觀四方而高者也 从至 从高省」(十二篇上010)で、「至」「高」の会意字である。音については、段氏は『廣韻』説を採用して「徒哀切」、『玉篇』は「徒來切」だから、まあ「タイ」あたりを復元できるかもしれない。
許愼解の「觀四方而高者也」は、『詩經』大雅・文王之什の「經始靈臺」(靈臺1章)の毛伝に「四方而高曰臺」とあり、また『爾雅』も釋宮第五でこれを確認しているから、戦国時代から秦漢代にはこの義が一般化していただろう。
ただし、『孟子』萬章篇の「葢自是臺無餽也」の趙岐注に「臺 賤官主使令者」、『方言』に「臺敵 匹也」(第二・10)、『廣雅』に「臺 輩也」(巻一上釋詁・43)などとあり、他方で秦漢代には「臺」が「遲鈍也」などの義に零落していた意味もある。
魏代には曹操が「三臺」を建てており、魏・晋朝においては天子に限られた「臺」が盛行した。『魏書』倭人条にも「因詣臺」の用例があり、「臺」は魏の天子が都にする所という意味で使われている。ただし、これも建興四年(316年)の西晋滅亡と共に終焉するようだ。
つまり、「臺」がまさに至高の意味から出発するものの、これがひどく零落した時期もあり、三国魏の時代では貴字として復活していたのではなかろうか。

次の記事

沢蟹