「恥」の構造

今考えれば、私の人生と恥は切り離せない。普段は裏にかくれて見えないのに、時おり噴出することが避けられない。
「慙愧」は「慙」「愧」いずれも「恥ずかしい」の義で、また「恥辱」「羞恥」にも通じる。『説文』における定義から自分を透かしてみることにする。
「慙」は「慙 媿也」(十篇下377)である。「愧」は御覧のように「媿」の字形で載っており、「媿」の異体とされている。他方「媿」は「媿 慙也」(十二篇下236)だから、「慙」「媿」は互いの字で互いを定義する「互訓」と呼ばれる。六書の転注という造字法は諸説あるものの、段氏はこれをその定義に使っている。
互訓は一見明解な方法であるが、一歩踏み込むと水掛け論になってしまい、厳密な解とは言えない場合がある。会意また形声字とみれば音符もまた義を持つから、それぞれ「慙」は「身を切られるような恥」、「媿」「愧」は「死者の霊魂に出会うほどの、尋常でない恥」あたりの義も考えられる。
「慙」についは『説文』に「恧 慙也」(十篇下378)という語も紹介されているが、今回は端折ることにする。
「恥辱」の「恥」は「恥 辱也 从心 耳聲」(十篇下374)、「辱」は「辱 恥也」(十四篇下176)でやはり互訓となっており、どちらも厳密な定義が得られない。だが、用例から見て、この「恥-辱」が普遍性のある使い方ではないか。また『廣雅』の「辱 汚也」(巻三上釋詁・40)からすれば、「辱」は「汚れて恥ずかしい」あたりかもしれない。とすれば「雪辱」して、綺麗にしたいものだ。
「羞恥」の「羞」もまた「恥じる」義である。『説文』で「羞」は「羞 進獻也 从羊丑」(十四篇下172)で恥じる義は記されてないが、『廣雅』では「羞 辱也」(巻三下釋詁・04)、「羞 恥也」(巻四上釋詁・43)となっている。私はどのような経緯で「羞」に恥ずかしい義が付されるようになったのかよく知らない。
「忸怩」は共に恥じる義であるが、あるいは、「忸」の旁である「丑」がひねる形とも解されることに関連するかもしれない。
ここでつらつら振り返ってみるに、この年になるまで世に何の貢献もせず、しっかりしたモラルを持つことができないにもかかわらず、針小棒大に知ったかぶりをしてきた。
「忸怩」の「怩」もまた『説文』に収録されないが、「泥」などの字形から考えて、「まとわりつく恥」あたり。まことに忸怩たる思いである。

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