直感と直観

気になっていたテーマだが、近ごろ茶飲み話でも「直感」と「直観」の使い分けが話題になったので書く気になった。これまで何度も迷ってきた。ここらで決着をつけたいが、どうなることやら。難航しそうな予感がする。
落ち着いて振り返ってみると、これまで一度も正面に据えていない。正直なところ、ついぞ思いつきもしなかった。いい加減なもので、必要がなければ、たいていのことは放っておいても苦にならない。自分なりに定義することはおろか、使い分けもしてこなかった。それではどのような違いがあるのだろうか。
まずは「感」から。「敏感」は、物や状況に触れて心が鋭く動くこと。「感覚」は、五感に刺激を受けて知覚すること。「予感」は、物事の一端に触れて、その前兆から前もって結果を描いてしまうこと。等々の解でよければ、人の心が物事に何らかの反応していることになる。
『説文』でも「感 動人心也」となっており、大きくは外れていない。概して「憾」は「感」より怨みや怒りにしても浅いという。英語では<feel><sense>あたり。
これに対し「観」は、「観察」はよく注意して細かく見ること、「観測」は自然現象を注意して測定することだから、知識や経験を動員して注意深く推察しているだろう。
『説文』は「觀 諦視也」とする。「諦 審也」は「審らかである」。また日常にあるものを注意深く見るのを「視」とすれば、「觀」は詳しく注意して見る義でよさそうだ。
また「視」と比べ、常ならぬものを見ることを「觀」とする場合があり、逃さず異常を知る義もありそうだ。そう言えば「門觀」で、「觀」は見張り台の意味だった。英語では<watch><observe><look at>あたり。
以上から、直感は物事に刺激を受け、これに反応して直に印象を得るというような意味か。若い時にはフレッシュな五感を使って物事を楽しめそうだし、歳をとっても心を開いているなら反応もまた細やかであり、いずれも本質に迫れることがある。
これに対し直観は、これまでの経験を生かし、一瞬にして物事を理解して推移を読み取るような義か。じっくり考え抜いてきたとしても、繰り返しやっていれば、途中のプロセスを省くことができる。熟練した職人技がこれにあたる。
現代日本語における漢語音ではいずれも「カン」だが、旧仮名遣いで「感」は「カム」、「観」は「クワン」となっている。これらはいずれも唐代以前に遡れる可能性がある。つまり「感」「観」は形音義共に異なる字だったのだ。
してみると、これまで私が「直観」を使っていた場面でも、おおむね「直感」を使うべきだったことになる。
ただ私の直感では、くたびれ果てた上の反応だから、第一印象でキュッと本質をつかむなど夢のまた夢である。

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