人物画像鏡(22) -三年の空白-

『日本書紀』には天皇在位に関して空白部分がある。531年から533年までの三年間が空位になっているので、また「三年の空白」と呼ばれることがある。
これは継体天皇の死亡を『百済本記』の記事を採用して531年にした為ということになっている。重要と思われるので、前回に続き再度引用すると、次のようなものだ。
「或本云 天皇廿八年歳次甲寅(534年)崩 而此云 廿五年歳次辛亥(531年)崩者 取百済本記爲文 大歳辛亥三月 (中略) 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子倶崩薨 由此而言 辛亥歳當廿五年矣 後勘校者知之也」
この記事の中に、空白の秘密が隠れていることは間違いあるまい。なぜ『書紀』の編者が伝承を採用せず、敢えて三年の空位をつくってまで、『百済本記』の記事を採用したのか不明とされる。
継体天皇、太子及び皇子が共に死亡したという記事はなく、彼のあと安閑、宣化天皇が後を継いでいるし、また欽明天皇も彼の実子であって、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という史実はない。更に、継体天皇の死亡年に関する伝承も無視していることになるから、『百済本記』の記述する「日本天皇」をどうしても継体にあてる必要があったことになる。
人物画像鏡(21)で述べたように、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」を私は武烈天皇と彼の太子及び皇子が死亡したと解している。武烈紀六年秋九月条にある「朕無繼嗣」の記事は、清寧紀でもそうであるように、王朝の変わり目をスムーズにさせる常套手段だろう。この場合、武烈天皇及び太子の死亡理由は不明だが、系統の異なる継体王が関連しているとも考えられる。継体王を531年に死亡させることによって、彼が簒奪ではなく正当に「日本国(扶桑国)」を継承したと演出しているのではないか。或いは「万世一系」の原則を適用したかったからかもしれない。
とすれば、継体王の死亡年が531年から解放され、継体(28年)-安閑(3年)-宣化(3年)を通じ、継体王朝として無理なく欽明天皇(540年-560年)に受け継がれるのである。