忘れることも大事

私は若い時から何かにつけ、覚える努力を怠ってきた。頭に叩き込んで、覚えようとしてこなかったように思う。割合時間に余裕のある人生だったからだろう、何回か繰り返すうちに、しっかり身につくことを優先してきた。
私には試験の前に、集中力や記憶力を駆使して、短時間に丸抱えできるほどの能力はなかった。忘れることを奨励するほど蓄積がないのに、「忘れることも大事」と語る資格はないかもしれない。だがまあ、私なりに言いたいことをまとめてみる。
若者がフレッシュな状態であれば、驚くほどの速さと確かさで情報を閲覧し、頭に入れていく。これは長年のあいだ、目の当たりにしてきた事実である。
ところが、これらの情報はあっという間に鮮度がおちてしまい、しばらくすると闇の中に消えていくケースが多い。自分なりに考え抜いたり、整理したりというような作業がなされていないからだ。
とりあえず何かに間に合えばよいのであって、あとのことは考えないということらしい。
理解できないまま丸覚えをしても、試験の場合、少しばかり条件を変えられてしまえばまったく歯が立たない。これでは、やらないよりはましという程度か。
覚えるにしても短期の目的にむかっているだけなので、取り組んでいることが自分の知性として根がつかないし、それを将来どう使うかという観点も欠落しているように思える。これでは、自身の長い将来にわたる知識や教養には繋がりにくい。
数学などで問題文をしっかり読み、粘り強く考え抜いて、立式する。或いは下手であってもなんとか証明してみるなど、苦労して理解したものは消えにくい。例えその内容は消えても、その取り組み方と何とかこなしたという実感は残る。皆さんも、同じような経験をしているのではなかろうか。
これらの経験は長く記憶に残り、新たな問題に取り掛かる自信につながる。これで必ずしも全て解決できるわけではあるまいが、最初からしっぽを巻いて逃げ出すという癖はついていないので、少なくともファイティング゙ポーズは取るだろう。
こういった営為を地道に学校で繰り返しても、一部の人を除いて、知識自体は役に立たないではないかという疑問を聞く。これに反論するのは難しいが、テーマをはっきりさせ、情報を整理し、筋道を立てて粘り強く考えるというのは日常生活でも欠かせない能力である。この過程で、自然に集中力を養っていけるのも見逃せない。社会科学でも例えば歴史学なら、今を見失わず自分なりに整理していけば、それぞれ歴史観の土台ができるだろう。やがて、これが人生を楽しくさせるのだ。
このようなプロセスを経るなら、細かなことは忘れても、エッセンスが手に入る。忘れると言うのも、次のテーマに向けて自らを真っ新にする上で、大切な能力だろう。忘れても問題なければ、確かに、覚えている必要はない。物覚えが悪いことも、たまには役にたつということか。

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