晩秋
生きていれば何らかの幸福感が必要で、辛いことばかりでは前を向いていられない。自分が必要とされているという実感が薄れ、存在感もぼやけてきている。歳をとるほど重みを増す人がいる中で、お寒い話だ。
この時期になると人恋しくなる。確かにこの地で様々な絆が生まれた。だが他方で、故郷を離れて少しずつ、親族や友人が死ぬたびに少しずつ、年齢を重ねるごとに少しずつ身を剥がされてきたように思う。無くしたものを惜しんでいるのだろうか。
浮世ともう一歩離れただけなら、必ずしも悲しむべき事とは限らない。ふと考えてみると、下世話な話で恐縮だが、若い時に金がないのは不自由ではあっても寂しさはなかった。やるべきことが山積していたからだろう。
近ごろ、金がないと何か不安な気がする。歳をとればとるほど要らなくなるのに。私は好きなことをやれているし、過不足なく日常を送れている。金があろうとなかろうとやることは変わらないのに不思議だ。いつまで生きるつもりだろう。人はどこまで行っても安定した収入が必要だということか。金がないことで勤勉にならざるを得ないのなら、むしろ健全な気もする。或いは単に飼いならされているだけか。
会社員で仕事にのめり込んできた人なら、退職して、回りに人がいなくなると寂しさを感じるかもしれない。私は宮仕えがほとんどなく、細々やっている自営業で、しかも同業者との付き合いが皆目なかった。また身寄りがない八幡へ来たので、同級生の付き合いもない。濃密な付き合いを避けたかったのかもしれない。
若い時なら壊れそうな人間関係を必死で修復しようとするだろうが、今ならそんな熱意は湧いてこない。どうもがいても壊れてしまうなら、もう避けられないというような気分だ。幸いにも、ここでは青年時代から当たり前の付き合いができる人たちがいる。
そろそろ寒い。手足が冷えて、体中に広がっていく。朝晩の寒さからすれば近いうちに雪が降りそうだ。高鷲や明宝などから雪の便りもある。
股関節がゴトゴトして足先が痺れるし、この時期になると乾燥して皮膚が痒い。めっきり目が見えなくなっているし、歯の不安も消えない。となれば、老いを楽しむどころではない。生きている実感と言えばむしろこれらかもしれない。
まだそれなりに体は動く。荒けない力仕事は無理としても、雪かきぐらいはやるつもりだ。
今年は数人で近くの温泉へ出かけられそうだ。数年ぶりである。後先のことをしゃべりながら、ゆっくり湯につかる。にぎやかな宴はないとしても、普段食べないような旬のご馳走を前に酒を飲む。これが目前の晩秋である。